42.京町堀の弁天さん |
天保十四年蔵屋敷図表によると淡路徳島藩城代の稲田九郎兵衛の蔵屋敷が京町堀川に架かる東から八番目の両国橋の北詰にあった。敷地内に国元の洲本から弁財天の分霊を勧請して守護神として祭祀していたが、廃藩置県の後もこの弁天さんだけは地元住民の深い信仰を集めて蔵屋敷跡地に以来連綿と祭祀が続けられ、弁天講の縁日には夜店も出て付近では夏の風物詩として親しまれてきた。 太平洋戦争後も長い間、新なにわ筋東南の京町堀通の南かどを少し東に入った狭い敷地に小祠が建てられ、弁天講も復活して、毎年八月の縁日には洲本の本社から神宮を迎えるなど、地元住民の弁天信仰は脈々と受け継がれている。 |
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昭和五十七年、付近に江戸堀振興町会の「江戸堀会館」が新築された際、会館敷地の一角に遷座され現在にいたっている。
弁財天は、わが国では七福神唯一の女神として親しまれ、福徳賦与の神として信仰されたのであるが、もとは河川を神格化したものであって堀割河川の密集した当地にもっとも相応しい守護神と言えるものであった、恐らく江戸時代の人たちはそのことを熟知していて、弁天さんを慕い深く信仰したものと思われる。 江戸堀のこの一帯は、戦災後の土地区画整理の際大きな街区変更を行った地域で、あみだ池筋の西側では東西方向に中間にもう一筋づつ道路を新設して短冊型の街区を構成した。戦前はこの街区の一角に徳島県物産販売斡旋所の大阪出張所が存在していたから、江戸時代からの信仰が途絶えることなく受け継がれていたのであろう。 |
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