[an error occurred while processing this directive]
22.橋いろいろ
立売堀架けられていた明治橋
(跡地付近に記念碑の建立あり)
  水の都の中心地いまも伝統の町づくりを反映
 
 当区を水面によって位置づけると土佐堀川・安治川を北限とし、西道頓堀川・岩崎運河を南限とする地域とはいえ、中央に木津川が流れて川東・川西地区に二分されることになる。
 そこに架かる橋は、現時点において二十四橋が数えられ、うち両橋詰めとも当区に属するのは木津川の七橋であり、北区との境界に八橋、浪速区との境界に七橋、大正区との境界に二橋が架かっている。
長堀に架けられていた富田屋橋
 往時、百を超す橋につながれ他地域と水面で境をなしていた当区の地域性は、その一大特色を失ったかに見えるが、川の流れと橋梁規模を眺めると決してそうではない事がよく分かる。
 戦争による大災害とその後に展開された都市再開発により、江戸時代の町づくりを契機に町びとの出費により次々に架けられてきた町橋の伝統を有する百八つの橋は長い年月の役目を果たして時代の中に川とともに埋められたが,各所に記念碑が建てられたり橋柱を遺物として残存させることにより「水の都」を偲ぶよすがとしている。
境川運河に架けられていた辰巳橋
 その「水の都」を多角的に市民に知らしている橋梁が当区の東北端に架かる『錦橋』である。この橋は本来、土佐堀川可動堰として大林組の工事により昭和六年三月に完成した特殊な橋梁であり、現在も堂島川に架かる通称水晶橋とともに大川の水流を清浄にし、流量を調整する役割を果たしている。昭和六十年に可動堰としての特徴を生かして橋上でたたずめる憩いの場として整備し、大阪の橋にまつわる錦絵を配したことから「錦橋」が通り名となった。
 中之島側には、「浪華橋づくし番付」が設置され「水の都」の往時を伝えている。 
百間堀川に架かっていた雑喉場橋
  (跡地付近に記念碑の建立あり)
 今は、幹線道路が縦横に整然と通じて区内の各地域を結んでいるが、往時の橋は地域の特性を際立たせるように橋詰めを突き当たりにしたり、橋筋を一筋ずらせたりして架けられ、通過するだけの人達には迷路のような道路構成にしていた。これは中世の環濠集落の性格を江戸時代初頭の町づくりに生かしたものとして注目される。その伝統は長く続き昭和前半に及んでいたのである。
21.大樹いろいろ ← 22 → 23.初代大阪府庁舎跡



[an error occurred while processing this directive]