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28.初世中村鴈治郎
扇屋跡地に建つ顕彰碑
明治・大正における歌舞伎界の名優

 初世中村鴈治郎は名優と謳われた三代中村翫雀の子として、万延元年(1860)に新町の揚屋,扇屋に生まれた。
  扇屋は名妓夕霧太夫を抱えた新町廓屈指のお茶屋であったが、明治維新政府が出した遊女廃止令のため、明治五年にはついに没落し、山村舞の師匠のはからいで鴈治郎は十二歳で実川延若の門に入り、実川鴈治郎を名のった。翌年、筑後の芝居(浪速座)で初舞台をふんだ。
 明治十一年に中村鴈治郎と改名し、翌年には初めての座頭になっているが、地位を確固たるものにしたのは同十六年に名古屋末廣座で市川団十郎と競演して恩顧を受けたのが始まりである。
 
 
初世中村鴈治郎の素顔
明治三十六年、初めて懇請されて太夫元となり、中座の客席を大入満員にした
が、その手腕に松竹の白井兄弟が着眼。その後の大提携がなされて日本の演劇界を席巻して行くことになった。
 大正十一年、東京新富座の近松二百年記念興業での「大晏寺堤」「紙治」が大評判をとり、以後「頬かむりのなかに日本一のかお」が生まれる。
 昭和十年二月一日、大阪では名市長といわれた関一の葬儀が行われた日に七十五歳で惜しまれながら世を去った。
 近年、生家があった新町一丁目の扇屋跡の一角に顕影碑が建立されている。
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